ジャニ&ハロプロ比較(コンサート編)
「ハロプロのコンサートはもっとパフォーマンス以外にもこだわってくれたらなぁ…」
なんとなくこう呟くと、ハロプロ界隈の方から「だってジャニーズとは予算が違うから😅」と言われることがあります。
この言い方、なんかモヤッと来るんですよね…
そしてぼんやりと、理由はもっと根本的なところにあるのではないか?と思っていたので、少し考えを整理してみようと思います。
まず、両者はコンサートで「見せたいもの」が違うのではないでしょうか。
ジャニーズのコンサート
=「キラキラした夢の世界を見せる」
ハロプロのコンサート
=「グループとして輝いている姿を魅せる」
こう表現すると自分の言いたいことに少し近づくような気がします。
ジャニーズコンサートの良さはなんと言っても世界観を第一に置いているところです。
デビューしたグループであれば、基本的には音楽アルバムCDをリリースして、その収録曲をベースにしたツアーを年1回行います。
曲に合った細かい演出の凄さは言わずもがなで、NEWSの大掛かりなセットや嵐の可動式ステージ・フリフラ、KAT-TUNの炎(特効)、V6の変態照明、舞台作品ならお家芸とも言えるフライングなどそれぞれのグループに得意分野があるのが強みだと思います。
しかし、彼らの真に素晴らしい点はそれを実現する資金面ではありません。
演出面を出演者自らが深く関わってプロデュースしていることです。
個人・グループのメディア仕事があれだけある中で…本当にすごい。
これはJr.を見るようになってから実感したのですが、この事務所は10代の頃から「自分がお客さんにどんな夢を見てもらいたいか・ライブを通じて何を伝えたいかを考えさせる」教育をしています。
小さな会場の、大道具が使えないような場所でも、立ち位置や照明に工夫を凝らし、セトリに合った衣装を先輩のお下がりから選択します。
セトリ自体にもストーリー性や緩急をつけているし、見る人を飽きさせない工夫がたくさんあります。
曲自体を出演者が作って披露することも珍しくありません。
先輩の公演を観に行って積極的に教えを乞い、勉強している子もたくさんいます。
与えられたものの中で全力を尽くすというよりは、自分たちの演出も込みで、コンサートという夢の世界を「創作」しているんですね。
これに対してハロプロのコンサートは「披露」です。
まずグループごとの単独ツアーを春秋の年2回やるうえに、それとは別に夏と冬にハロコン(ハロプロ全体の合同ツアーで全国を回ります。
なので、オールシーズンいつでもなんらかのライブをしているんです。
歌とダンスと立ち位置覚えるだけでめっちゃ忙しい。
しかも、時にはリリイベをこなしながら1つのツアーにつき20曲以上を練習します。
特にハロコンの場合はいつもと違うメンバーと歌割りを担当したり、他グループの曲もやるので覚えることも多いだろうと察せられます…
つまり、本番までに歌・ダンス・フォーメーションの技術を極限まで高めることこそが彼女らのコンサート準備なのです。
よって、両者の大きな違いはコンサートにおいて「演出」と「パフォーマンス」のどちらを重視しているか、にあると思います。
ジャニーズは演者の自由度が高いし己のエンタメをやらせてもらえるが、責任は強い。
ハロプロは演者の自由度は低いが、見せたいパフォーマンスの追究に集中でき、責任は弱い。
どちらがいいのかはわかりません。
でもどちらも演者の努力ゆえのクオリティーを発揮しているし、紛れもなく他に負けない武器です。
冒頭の会話の中ではいかにも「ジャニーズのコンサートの方がいい」みたいな言い方をしてしまったのですが、
ハロプロは卒業加入制なので時期によっては新人を抱えながら(あるいは主力を失いながら)歌とダンスのクオリティをあげていくという困難があったり…
アルバムツアーでもないので曲の世界観が一致しづらく、「何かを伝える」セトリが作りづらかったり…
せっかくモデル仕事をしているメンバーがいても衣装のデザインに関わる時間もなかったり…
資金面以外の困難な状況の中で彼女らはパフォーマンスに全てを賭けてくれているし、それこそがハロプロのコンサートの醍醐味だと思っています。大好きです!
ただ、極端に言うとアップフロントにジャニーズと同じレベルのコンサート資金があったとしても、それを演出に回すかなぁ…と疑問に思っただけの話です。
整理して気づいたこととして、
私はあの時、「ジャニーズの演出がすごいのは金のおかげだ」と言われたように感じてモヤっとしたのかもしれません。
「ジャニーズのエンターテイメントへの熱を知らずに『金の恵みのせい』にしてんじゃねーよ!!!!!」て感じ。
ふぅ。やっとモヤモヤの正体がわかりました!
いつの日か、叶う事ならド派手な演出で輝くハロメンを見たいなぁ〜…
そう思いながらこの1ヶ月、仕事の繁忙期を過ごす私でした。